株式会社イノーバ 代表取締役社長 CEO 宗像淳
僕は、ビジネススクール時代の友人から、「一番起業しそうになかったね」とよく言われる。他の同級生たちは、証券会社や金融企業で華やかなキャリアを築いていたが、僕はそうい うものに全く興味がなかった。 昔からキャリア志向でもなく、ましてや社長になるなんて、考えてもいなかった僕が、なぜ起業したのか。今回の記事では、前編と後編に分けて、現在のイノーバに至るまでのストーリー を多くの人と共有し、イノーバにこめられた想いを知ってもらいたいと思う。
■小さな酒屋を営む実家で経験した、「商売」の面白さ
僕が生まれたのは、福島県郡山市。自然が豊かな、のどかな場所で僕は育った。実家は「ゆうき商店」という、小さな酒屋。酒屋といってもお酒だけではなく、食料やタバコも取り扱っていて、それなりに人気のある店だった。 ゆうき商店はもともと祖父が始めた店だったが、物心がついた頃には、僕の母親が店を営んでいた。そんな家に生まれたおかげで、僕が初めて「ビジネス」というものに触れた経験は、かなり幼い頃。朝の仕入れに始まり、レジ打ちや自動販売機の補充まで、色々やっていたが、当時の僕は店を手伝わされるのが、嫌で嫌で仕方がなかった。
そんな僕が、唯一楽しさを感じていたのが、「お客さんとの会話」。純粋に大人と会話できる のが楽しかったし、何よりもお客さんの笑顔が嬉しかった。 お客さんが欲しい物を仕入れてきて、売る。商品が売れると店は儲かって、また商品を仕入れ ることができる。お客さんも欲しい物が手に入るので、喜んでくれる。このシンプルで、「ビ ジネスの基本中の基本」とも言える流れを、子供ながらに体験し、そこに喜びや楽しさを見つ けていた。だから店の手伝いは嫌いでも、「商売」そのものは嫌いではなかった。
そしてもう 1 つ、今の僕の考えにも大きく影響しているのが、僕の母親。ザ・昭和な人で、家事と育児をしながら店を経営するという、本当によく働く母親だった。最低限の睡眠時間を取って、あとは 24 時間 365 日働きづめ。そんな母がとても苦労していたのが、店の経理処理だった。強度の乱視のため、経理処理にも時間がかかり、とても苦労していたのを覚えている。
そんな母親の姿を見ていたせいか、「母のように頑張る人をどうにか助けたい」という想いが、僕の中で非常に強くなっていった。「社会の課題を解決したい」「困っている人を助けたい」。今の僕がこう考えているのも、必死になって働き、苦労していた母親の背中を見て育ったからだろう。 小さい頃に商売を通して、お客さんの笑顔を見る喜びを知ったこと。そして、経営の苦労や仕事に対する姿勢を母から学んだこと。この 2 つの原体験は、間違いなく、今の僕の根幹になっている。
■大企業で味わった挫折
そして MBA 留学へ大学卒業後、僕が入社したのは富士通。ちょうどインターネットの時流が始まりつつあった頃だ。富士通に入社したのは、「もっと IT を活用すれば、人は苦手分野を IT に任せることができる。そうすれば、個人が自分の好きなことや得意なことに、今よりも集中できるんじゃないだろうか。」と考え、可能性を感じていたからだ。
しかし、僕の富士通でのキャリアは、華々しいものではなかった。最初に入ったのは海外の部署で、担当していたのはメインフレーム事業。事業の売上規模は 200〜500 億円ぐらいで、コン ピューター製品を輸出する事業だったが、円高と IBM との価格競争の煽りを受け、入って 2 年位で撤退を余儀なくされてしまった。 この時、僕は会社として事業を撤退することの重みを、非常に感じた。多くの人がリストラされ、その影響はもちろん、製造していた工場にも及んだ。
「負けるってこういうことなのか。」事業の閉鎖を目の当たりにした僕は、「もう負けるのは嫌だ。絶対に勝ちたい」と思うようになった。社会人になってから、初めての挫折だった。 しかし、そう思う一方で、海外営業という事務職では自分のスキルや成長度合いが分かりにくく、不安は募るばかり。「このままでいいのだろうか」「何か手に職を持てるようになりたい」そんな気持ちが蓄積した結果、何かに挑戦してみようと思い、MBA 留学を決意した。
■MBA 留学で学んだ「居心地の悪いことに挑戦する」大切さ
MBA に行って一番良かったことは、自分の視野が広がったこと。今までは、富士通という社内のことしか分からなかったし、それが全てだった。しかし、留学先には同級生には金融出身の人や起業家の人もいたので、自分の考えや視野を大きく広げるきっかけになった。 そしてもう 1 つ、MBA 留学で学んだことがある。それは、「Get out of your comfort zone」 という考え方だ。「居心地の悪いことに挑戦してみる」という意味で、留学先の先生や先輩からも、この言葉をよく言われた。
実際、留学中は「居心地が悪い」ことがたくさんあった。例えば、ネイティブの学生たちを前に拙い英語で発表したり、コメディ風の劇みたいなものをやらされたこともあった。しかし、 そのような自分にとって「居心地が悪いこと」に挑戦している時こそ、実は最も成長できるチ ャンスでもあるのだ。 正直、当時は周りの環境に適用するのに精一杯で、この言葉の大切さをあまり理解できていなかった。しかし、後から振り返ってみると、この「Get out of your comfort zone」という考え方を知り、実際に自分がそれを経験できたことは、MBA 留学で得たとても貴重な学びであっ たと思う。
MBA 留学から戻った後は、主に新規事業を担当。ここで僕は、「大企業から新規事業を生み出 すことの難しさ」を経験することになる。「今一番稼げる、儲かる部署に優秀なリソースを投じる」というのが、大企業における経営手法だ。(これをイノベーションのジレンマと呼ぶ) 富士通だと主に、一案稼げるのは金融システム。そこに優秀な SE が全て投入される。 しかし、新規事業はまだどのくらい稼げるかも、分からない状態。そこに優秀な人材や予算は あまりかけられない。
しかし、人材や資金を投入しなければ新規事業は生まれない。実際に、 このジレンマを目の当たりにした僕は、「どうやったら事業って生まれるんだろう?」という 終わりのない問いを、悶々と考えていた。 そんな風に悩む一方で、僕は上司にとても恵まれていた。色々なプロジェクトを任されると、 「認めてもらえている」という実感があった。だから、富士通は僕にとって「居心地のいい場所」になりつつあったのだ。
しかし、そこには MBA 留学の時に感じていたような「居心地は悪いけれど、自分が成長できている実感」はあまりなかった。 「もっと成長していくには、もっと辛い環境に、自分の身を置くべきなんじゃないか。」次第にこう考えるようになった僕は、富士通という居心地の良い場所から離れ、次のチャレンジの 場を探すことを決意した。MBA 留学で学んだ、「Get out of your comfort zone」の大切さを 知っていたからこその、決断だった。
■大企業からベンチャーへの転職
富士通を退社するにあたって、問題が 1 つあった。MBA の留学費用だ。社内規定により、留学後 5 年以内に退職する場合は、その費用を返還する必要があったのだ。僕は、当時の転職エージェントに相談し、会社側と交渉してみたが、減額はできなかった。結局、留学費用を全て返還し、借金を背負って、楽天へ転職した。
楽天では、物流事業の立ち上げなどを経験した。新しく立ち上げるので、もちろん課題は山積みだったが、それはそれで非常に面白かった。「やっぱり自分は、新規事業の立ち上げとか結構好きなんだな」と思えたのも、この頃だ。 また、担当していたのは物流事業という、自分にとっては全く未経験の分野。
しかし、この時の経験から、「やったことがないことでも、飛び込んでいく」というのが、自分は得意な方だと気付くことができた。多くのことを学び、経験していく内に、あっという間に 1 年半が経過した。 「これから先、このまま物流のスペシャリストになっていくか、何か違うことを始めるか」こ んな風に考えていた頃、ちょうど縁があって、ある企業へ転職することになった。 それが、社員 4 人のベンチャー企業、ネクスパス。こうして僕は、ベンチャーの世界に足を踏み入れることになる。
※次回は、ベンチャー企業に転職した僕が、なぜイノーバを創業することになったのか。そして、創業してから現在のイノーバに至るまでのストーリーをお伝えします。
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